会津絵ろうそくの歴史

会津絵ろうそくの歴史は古く、室町時代中期の会津の領主 蘆名 盛信
(あしな もりのぶ、応永15年(1408年) - 宝徳3年3月18日(1451年4月19日)
蘆名氏11代当主)が、漆樹の栽培を奨励し、漆の樹液から漆器、実からは
蝋(ろう)が作られるようになります。 蝋(ろう)は、加工されて蝋燭(ロウソク)の原料となりました。
1581年 18代蘆名盛隆は信長に名馬3頭・蝋燭1000挺を献上すると七宮・223頁、
『信長公記』に記載があることから、贈答品として利用されていたことがわかります。
まだこのころは、絵は描かれていませんでした。
安土桃山時代の武将である蒲生氏郷が豊臣秀吉の命を受けて会津の領主となると、
近江より蝋燭(ロウソク)職人を呼び寄せて品質の良い蝋燭(ロウソク)が作られるようになり、
花の絵が描かれるようになったといわれています。
このおかげで、会津絵蝋燭(ロウソク)は、貴重な蝋燭(ロウソク)の中でも珍重されようになり、
江戸時代には会津絵ろうそくは最高級品として、参勤交代の度に江戸に持参され、禁裏、
公家へ献上したり、諸国大名へ売られたりし、仏事や婚礼などの冠婚葬祭用として使われました。
昔は挙式と披露宴を家でおこなうことが多く、日が落ちてから大勢の客を招いての祝宴を演出する際、
身分の高い人々の間で絵ろうそくが使われ、その華やかな様子を例えて「華燭」とは結婚式の席などの
華やかなともしびの意味として使われるようになりました。
現在では、挙式と披露宴を家で行うことはずいぶん減りましたが、「華燭の典」は婚礼ではなむけの言葉として
今でもたびたび使用されています。
会津藩政時代の蝋(ろう)は専売制度の中で生産から販売まで統制されていました。
東北地方では漆の実から、九州・四国・山陰地方では櫨(はぜ)の実から蝋(ろう)を精製していました。
農作業の閑散期に採った実は乾燥させてから臼に入れて搗き殻をとって蝋粉にします。
その後、麻袋に詰めて搾り機で搾って蝋(ろう)とします。
搾りとられたばかりの蝋(ろう)は深緑色をしています。さらに天日に晒すことにより白色に変色します。
こうして絵ろうそくの原料の晒し蝋(ろう)ができるのです。
会津若松の浄化だけでも70から80軒の蝋燭(ロウソク)業者がいたそうです。
その中で数軒だけが絵付けが許されていたといいます。
蝋燭(ロウソク)作りは分業されており、蝋燭(ロウソク)を作る職人と絵付を行う職人と
販売を行うお店とは分かれていました。
藩では希少価値を高めるため、技術が他国へ流出しないように職人は厳しく管理下においたようです。
明治維新の会津戦争では藩が崩壊して多くの店が廃業しました。
近代になりガス灯それから電気の時代になると蝋燭(ロウソク)産業は衰退していきました。
第二次世界大戦時は7軒を残すのみとなりました。
それも戦時下の統制や敗戦で原料が手に入らなくなると次々に廃業に追い込まれました。
かつては最高級品として珍重されていた会津絵蝋燭(ロウソク)も風前の灯火となっていましたが、
民芸運動の中心人物の浜田庄司(陶芸家)さんが会津に訪れ、会津に民芸協会が設立されてから
見直されはじめました。
マスコミにも取り上げられ「伝統ある会津の絵蝋燭(ロウソク)を絶やしてはいかん」と、たくさんの人が力を
貸してくれたそうです。
また、昭和天皇が会津に行幸された際には会津絵蝋燭(絵ろうそく職人 小澤 徹二 作)が贈られました。