ろうそくの歴史は以下の通りです。
蝋燭は紀元前1550年頃の古代エジプト時代から存在し、シルクロードを経て中国に伝わりました。日本には7世紀ごろに遣唐使により、唐から伝わりました。当時は国内で生産できず、遣唐使が帰国の際にもってくるとても価値が高い輸入品でした。輸入された蝋燭は蜜蝋で作られていたと考えられています。
遣唐使が廃止された894年以降、蝋燭の輸入が無くなり国内で蝋燭が作られるようになります。しかし日本には蜜蝋がありませんでしたので、木蝋で作られるようになりました。このようにして和蝋燭が誕生しました。
このようにして誕生した和ろうそくですが、原料の栽培から収集、精製や、手作業による製造は熟練の技を要したため、生産量は大きく増えることはなく、和蝋燭はとっても高価なものでした。
江戸時代になっても生産量は大きく増加することはなく高価であったため、屋内照明に普段使いするのは大名の御殿や料亭、遊郭など限られた場所だけだったようです。庶民は蝋燭を滅多なことがないと使用しませんでした。
会津絵蠟燭(あいづえろうそく)の歴史は以下の通りです。
今から600年以上前の室町時代に、当時の会津地方の領主である蘆名盛信(1408年 - 1451年)が漆樹の栽培奨励により、漆樹から得られた蝋(ろう)を原料として蝋燭が盛んに生産されるようになりました。蘆名盛信の時代から、蝋燭は会津の特産品として知られ、織田信長に贈られるなど高い評価を受けました。
安土桃山時代に秀吉の命を受けて蒲生氏郷が会津の領主となると、黒川城から若松城に名前を変え、城下に街づくりを行います。このとき蝋燭職人が近江より招かれ、花の絵が描かれるようになったと伝承されています。江戸時代には絵蝋燭は会津の代名詞となり、最高級品として幅広い用途に使われました。江戸時代において、蝋燭は高価であり、会津絵蝋燭はその中でも白地に描かれた花々が美しいことで特に重宝されました。会津藩では絵蝋燭の希少価値を高めるため、技術が他国へ流出しないように職人を管理下におき、生産から販売まで専売制を敷いて統制していたようです。そうして、会津絵蝋燭は蝋燭の中でも珍重されるようになり、江戸時代には最高級品として、江戸に運ばれ、禁裏、公家、諸国大名へ献上したり、仏事や婚礼などの冠婚葬祭用として使われました。会津松平は絵蝋燭と一緒に挿絵になるなど会津と言えば絵蝋燭と認知されるようになっていきます。
皇族にも愛用され、明治時代のウィーン万博では、日本を代表する工芸品として出展されました。
<注釈>
※蘆名 盛信(あしな もりのぶ、応永15年(1408年) - 宝徳3年(1451年)蘆名氏11代当主 室町時代の会津地方の領主
※蘆名氏は鎌倉時代三浦氏の氏族。相模国三浦郡蘆名(現在の神奈川県横須賀市芦名)の地名に由来し、3代目光盛から蘆名氏を名乗る。家紋は丸に三引両。文治5年(1189年)、奥州合戦の功により、三浦義明の七男・佐原義連に会津が与えられたのが初め
※奥州合戦は、文治5年(1189年)7月から9月にかけて、源頼朝の鎌倉方と奥州藤原氏との間で行われた戦い。源義経と武蔵坊弁慶の最後となった話が有名
※七宮・223頁および『信長公記』によれば、1581年に蘆名家18代当主の蘆名盛隆は、織田信長に名馬3頭・蝋燭1000挺を献上したと記述
※フランツ・ヨゼフ一世 オーストリア皇帝(在位:1848年 - 1916年)
※ウィーン万国博覧会は、皇帝フランツ・ヨゼフ一世の治世25年を記念して、1873年にウィーンで開催された
明治政府が初参加したウィーン万国博覧会では、新しい日本を全世界にアピールするために、日本的で精巧な美術工芸品の一つとして会津絵蠟燭が選出されている
※小澤ろうそく店に、ウィーン万国博覧会に出展されたものと同じ筆や筍、巻物の形に似せて作った蝋燭が残存
残念ながら、これら筆や筍、巻物の形に似せて作った蝋燭は伝承者がいないため、製造方法は不明
※小澤蝋燭店の会津絵ろうそくは、大正4年に秩父宮、高松宮両殿下、大正5年に攝政宮殿下、大正9年に皇后陛下、昭和14年に照宮内親王殿下にお買上いただく
※攝政宮殿下(後の昭和天皇)
※昭和天皇が会津に行幸された際には小澤 徹二 作の会津絵蝋燭が贈られました
江戸から明治時代の初めまでの会津絵ろうそく作りは家内制手工業が中心で、蝋燭を作る職人と絵付を行う職人など分業されていました。
小澤ろうそく店では問屋制家内工業を行っており、原材料を提供し小生産者が自宅で加工を行う工業形態をとっていました。
蝋燭業者は、会津若松の城下だけでも70から80軒が存在していましたが、絵付けが許されていたのは小澤ろうそく店を含む数軒だけといいます。
先に述べましたが江戸時代において蝋燭はとっても高価なもので、大名の御殿や高貴な身分の方に利用されているものでした。そのため、明治維新の会津戦争で藩が崩壊すると蝋燭の消費者である武士が没落し需要を失って多くの店が廃業しました。
また、大正の時代になるとガス灯や石油ランプが西洋から輸入され、蝋燭の需要はさらに減っていきました。そして大正末期から昭和にかけて電気が普及すると蝋燭産業は衰退していきました。
このような状況下で第二次世界大戦前には会津地方で蝋燭店は7軒を残すのみとなりましたが、戦時下の統制や敗戦で原料が手に入らなくなり、次々と廃業に追い込まれました。
終戦後に会津絵蝋燭のお店は3軒のみとなってしまいました。
戦時下に原料が入らなくなった理由は、日本軍が南方に進出する際、電気のない戦地で蝋燭が軍事物資として重用されたからです。蝋燭の原料は軍事物資として優先的に軍に供給され、民間への供給はほとんどなくなったわけです。
南方のジャングルでは電気が無いため野営地では蝋燭が明かりとして用いられたためです。軍事物資として蝋燭は工業的に作られたため、工芸品の方まで原料は回らなくなったと考えられます。
その後、風前の灯となっていましたが、日本全国で起きた民芸運動により会津絵ろうそくも見直されました。現在では観光資源としての会津絵ろうそくが残っています。新規開業を行った2軒を含む5軒が会津絵ろうそくを作っています。
小澤ろうそく店は7代続く会津絵蝋燭店の老舗です。創業は江戸期と言い伝えられていますが、会津戦争で南町に住んでいたため焼けてしまい正確な時期は分かっていません。
会津戦争後に今の新明神社と共に移動してきて、糟谷家(800石)の跡地に店を構えました。それ以降、明治時代から変わらぬ建物で会津絵ろうそく店を営んでいます。
明治時代は職人さんを雇い蝋燭を作っていました。その後、第二次世界大戦後に会津絵蝋燭づくりの名人である芦田忠吉から、小澤徹二がその技を受け継ぎ、妻成子へ伝承し、現在でも会津絵ろうそくを製造販売しています。
小澤徹二の製作した会津絵ろうそくは形が良いうえに絵柄が綺麗であると品質が好評です。昭和天皇が会津に行幸された際には小澤 徹二が製作した会津絵ろうそくが献上されています。
かつては最高級品として珍重されていた会津絵蝋燭も第二次世界大戦後は風前の灯火となっていました。
世界的陶芸家のバーナード・リーチ氏と民芸運動の中心人物の浜田庄司(陶芸家)さんが会津に訪れたときに、小澤ろうそく店の6代目の小澤文寿が会津絵ろうそくの紹介と生産現場の案内をいたしました、そうして、バーナード・リーチ氏に絶賛されることになります。
そして会津に民芸協会が設立されてからマスコミにも取り上げられ「伝統ある会津の絵蝋燭を絶やしてはいかん」と、たくさんの人が力を貸してくれるようになったそうです。
こうしたたくさんの方々のお力添えがあり、現在も会津と小澤の伝統を受け継ぐことができています。
会津絵ろうそくの特徴と種類はこちらを参照してください。> 会津絵ろうそくの特徴と種類
会津絵蝋燭の用途はこちらを参照してください。> 会津絵蝋燭の用途
伝統的な会津絵蝋燭の原料と作り方はこちらを参照してください。> 伝統的な会津絵蝋燭の原料と作り方